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「賤ヶ岳の戦いって、誰と誰がなぜ戦ったの?」「七本槍は本当に7人だったの?」と気になっている人も多いのではないでしょうか。2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、8月に「賤ケ岳の決闘」「北庄城の別れ」の2回にわたって描かれ、舞台となった滋賀県長浜市の賤ヶ岳を訪れる人も増えているようです。
この記事では、戦いが起きた理由、日程と流れ、七本槍の顔ぶれ、そして今の古戦場の歩き方まで順に紹介します。日付は、断りのない限り当時の暦(旧暦)で書いています。
賤ヶ岳の戦いはなぜ起きた?背景と日程
まずは、秀吉と柴田勝家がなぜ戦うことになったのか、そしていつ、どこで戦いがあったのかを確認しておきましょう。始まりは、前の年に起きた本能寺の変です。
なぜ秀吉と勝家は戦った?清洲会議から長浜城・岐阜城攻めまで
Wikipediaによると、天正10年(1582年)6月2日、織田信長と嫡男の信忠が本能寺の変で亡くなり、その直後の山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉が、信長の家臣たちの中で大きな力を持つようになりました。同じ年の6月27日、織田家の後継ぎを決める会議が清洲城で開かれました。これが清洲会議で、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と、信忠の子の三法師(のちの織田秀信)を推す秀吉が激しく対立したと伝えられ、会議では、同席した丹羽長秀や池田恒興が三法師の擁立に賛成したため、勝家も譲らざるをえなかったとされます。
ただし、この有名な場面には別の説もあるので注意が必要です。Wikipediaの注釈では、柴裕之さんの『清須会議』(2018年)の説として、勝家が信孝を推したという話は『川角太閤記』の創作で、勝家も三法師の擁立そのものには賛成していて、三法師が大人になるまでの名代(当主の代理)をどうするかで対立したという見方が紹介されています。ドラマや小説の印象と、研究で示されている説が違うこともあるので、読み比べてみると面白いところです。
会議のあと、両者は周りの勢力を味方に引き込もうと動きます。美濃の稲葉一鉄や越後の上杉景勝が秀吉側につき、勝家側は土佐の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆と結びました。勝家は11月に前田利家・金森長近・不破勝光を使者として送り、秀吉と和睦の交渉をしますが、Wikipediaでは、北陸に領地を持つ勝家が冬の雪で動けないことを理由にした見せかけの交渉だったとしています。秀吉はこれを見抜き、逆に使者の3人に働きかけたとされます。
雪で勝家が動けない時期を狙って、秀吉は12月に近江へ兵を出し、長浜城を攻めました。長浜城は清洲会議のあと勝家のものになっていて、勝家の甥で養子の柴田勝豊が入っていましたが、勝豊はすぐに降伏します。長浜市の観光サイトでは、この長浜城攻めを天正10年12月9日のこととしています。さらに秀吉は美濃に進み、12月20日には岐阜城の織田信孝も降伏させました。翌天正11年(1583年)の正月には、勝家方の滝川一益が伊勢で兵を挙げ、秀吉は伊勢の城攻めにも追われることになります。
戦場の場所と1583年4月の日程、資料で違う開戦日
賤ヶ岳の戦いの舞台は、近江国伊香郡、今の滋賀県長浜市木之本町・余呉町のあたりです。賤ヶ岳は標高421mの山で、北側の余呉湖と南側の琵琶湖を分けるように立っています。北陸の勝家が近江に出るには、余呉湖の東を通る北国街道を南へ進む必要があり、その出口をふさぐ場所が賤ヶ岳の周辺でした。
Wikipediaによると、勝家は天正11年3月12日に佐久間盛政や前田利家らとおよそ3万の軍勢で近江の柳ヶ瀬に着き、秀吉は3月19日に5万といわれる兵で木ノ本に陣を構えました。両軍はすぐには攻めず、しばらくは砦を盛んに築いてにらみ合います。長浜市の観光サイトでも、両軍は余呉湖の周辺に砦を築いて膠着状態になったと説明していて、勝家が着陣したのは越前と近江の境にある玄蕃尾城(内中尾山城)だったとしています。
| 日付(天正11年) | 主なできごと |
|---|---|
| 3月12日 | 勝家が約3万で柳ヶ瀬に着陣 |
| 3月19日 | 秀吉が約5万で木ノ本に着陣 |
| 4月16日 | 織田信孝が再び挙兵 |
| 4月19日〜20日 | 佐久間盛政が大岩山砦を奇襲、中川清秀が討死 |
| 4月20日〜21日 | 秀吉が大垣から戻り、決戦。勝家が退却 |
| 4月24日 | 北ノ庄城が落城し、勝家とお市の方が自害 |
注意したいのが、大岩山への奇襲の日付です。Wikipediaの本文では4月19日に盛政が大岩山砦を攻めたとしていますが、合戦の日付としては「4月20日〜21日」が挙げられている点です。一方、滋賀県の公式観光サイトや長浜市の観光サイトでは、戦いは4月20日の未明(早暁)に勝家側が大岩山に奇襲をかけて始まったと書かれていて、秀吉が勝つまでわずか2日足らずで終わったとしています。夜中から明け方にかけての出来事なので、どこを区切りにするかで日付が1日ずれていると考えられるでしょう。
なお、旧暦の4月20日〜21日は、今の暦(グレゴリオ暦)に直すと1583年6月10日〜11日にあたります。ちょうど梅雨の時期の合戦だったことになり、Wikipediaにも、秀吉が美濃に向かった際に揖斐川があふれて大垣城に入ったと書かれています。資料を読むときは、旧暦なのか新暦なのかを確かめるようにしましょう。
兵力の数字にも幅があります。Wikipediaでは、秀吉方は5万〜7万、勝家方は3万とされ、損害は秀吉方が4,000〜6,000、勝家方が8,000以上と書かれています。また、にらみ合いの間に秀吉がずっと戦場にいたわけではありません。3月27日には一部の軍勢を率いて長浜城に戻り、伊勢と近江の両方の戦いに目を配っていたとされます。丹羽長秀も勝家の西進に備えて海津と敦賀に兵を出していました。こうした背景を知っておくと、次に紹介する秀吉の不在を突いた奇襲の意味がよく分かります。
戦いの流れ:大岩山の奇襲から北ノ庄城の落城まで
にらみ合いが続いた賤ヶ岳の戦いは、4月の数日間で一気に決着がつきました。ここでは、戦いの流れを「秀吉が近江を離れた隙の奇襲」と「秀吉の反撃と勝家の敗走」の2つに分けて見ていきます。
大岩山の奇襲と美濃大返し:52kmを5時間で戻った秀吉
戦いが動いたきっかけは、4月16日に、一度は降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結んで再び兵を挙げたことでした。近江・伊勢・美濃の3方面で戦うことになった秀吉は、翌17日に美濃へ向かいますが、揖斐川の氾濫で大垣城に入ります。秀吉の軍勢の多くが近江を離れたのを好機と見た勝家方では、佐久間盛政が大岩山砦を攻めることになりました。
大岩山は、滋賀県の公式観光サイトによると、左に賤ヶ岳、右に岩崎山、前方に神明山と味方の軍に囲まれ、比較的安全な砦だったとされています。そこを盛政に奇襲された中川清秀は、すぐに応戦して一時は敵を余呉湖の岸まで押し返しましたが、最後は力尽き、配下の兵数百名とともに討死しました。盛政はさらに岩崎山の高山右近を攻め、右近は木ノ本の羽柴秀長の陣に逃れました。黒田孝高(官兵衛)の部隊は攻撃を受けながらも守り抜いたと、Wikipediaには書かれています。
勝家は盛政に引き上げるよう命じましたが、盛政は何度命じられても従わず、前線にとどまり続けたとされます。その間に、賤ヶ岳砦を守っていた桑山重晴も一度は撤退を始めました。ところが、ちょうど琵琶湖を船で渡っていた丹羽長秀が、部下の反対を押し切って海津(Wikipediaの表記)に上陸し、約2,000の兵で桑山の軍勢と合流して賤ヶ岳砦を確保します。ここで戦局は大きく変わりました。
同じ日、大垣城にいた秀吉は大岩山などの陣が落ちたことを知り、すぐに軍を返しました。Wikipediaによると、14時に大垣を出た秀吉軍は、木ノ本までの13里(約52km)を5時間で移動したとされ、これが「美濃大返し」と呼ばれています。長浜市の観光サイトでは、秀吉は約1万5千の軍勢を率いて戦場に戻ったとされています。前の年の「中国大返し」と並んで、秀吉の素早い動きを物語るエピソードです。
5時間で52kmということは、平均すると1時間に10km以上進んだ計算になります。Wikipediaの「美濃大返し」の項目では、秀吉が先に街道沿いの村々へ使者を送って炊き出しと松明の用意を命じ、午後2時ごろに大垣を出た軍勢の先頭が午後7時ごろには近江に着いたと説明されています。ただ、全軍がそろって5時間で移動したわけではなく、先頭が着いたあとに休息を挟んで数をそろえたとも書かれているので、数字は「伝えられている目安」として受け止めておくのがよいでしょう。
前田利家の離脱と、勝家とお市の方の最期
4月21日の未明、秀吉の大軍は佐久間盛政の部隊に襲いかかりました。Wikipediaによると、盛政の部隊は奮闘したため、秀吉は攻撃の対象を盛政の弟・柴田勝政に切り替え、勝政を救おうとした盛政の部隊との間で激しい戦いになったとされます。このとき秀吉方で活躍したのが、のちに「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる若い武将たちでした。
勝敗を大きく分けたのが、柴田方の前田利家の動きです。茂山に陣を構えていた利家の軍勢が、激戦のさなかに突然戦場を離れました。これで佐久間隊の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に落ちたとされます。Wikipediaでは、利家が早くから秀吉の誘いに応じていたのではないかと推測されていると書かれています。さらに不破勝光・金森長近の軍勢も退いたため、秀吉の軍勢は勝家の本隊に押し寄せ、勝家は越前の北ノ庄城(今の福井市)へ退却しました。
長浜市の観光サイトでは、勝家の小姓だった毛受勝照・勝忠の兄弟が、勝家を落ち延びさせるために金の御幣の馬印を掲げて身代わりとなり、討死したという話も紹介されています。秀吉はその忠義に感じて亡骸を手厚く葬り、全長寺の僧に弔いを頼んだと伝えられ、今も古戦場には「毛受兄弟の墓」が残っています。
Wikipediaの「北ノ庄城の戦い」の項目によると、勝家は退却の途中、府中で前田利家に会い、これまでの付き合いに礼を言ったうえで、秀吉と和解するよう勧めたとされています(『前田家譜』)。4月23日、秀吉は堀秀政を先鋒とし、前田利家を道案内役にして北ノ庄城を囲みました。勝家が城に集められた兵は3,000ほどだったとされ、その夜、勝家は一族と近臣80人余りを天守に集めて最後の宴を開いたと伝えられます。妻のお市の方は城を出るよう勧められましたが、これを断り、3人の娘(茶々・初・江)だけを城から出すことにしたとされています。
4月24日、秀吉は午前4時から本丸を攻め、午後5時ごろに勝家は自害し、お市の方も運命をともにしました。その後、佐久間盛政は捕らえられて処刑され、岐阜城の織田信孝も4月29日に自害します。伊勢の滝川一益も約1か月後に城を明け渡しました。この勝利で、秀吉は信長が築いた権力を受け継ぐ立場を固め、同じ年のうちに大坂城の築城を始めています。
賤ヶ岳の七本槍は誰?その後の人生と「9人説」
賤ヶ岳の戦いといえば、「七本槍」を思い浮かべる人も多いでしょう。ここでは、7人の顔ぶれとその後の人生、そして「本当は7人ではなかった」という話を紹介します。
七本槍は誰?7人の生没年とその後
賤ヶ岳の七本槍は、4月21日の追撃戦で特に目覚ましい手柄を立てたとされる、秀吉方の若い武将7人のことです。長浜市の観光サイトによると、福島正則・加藤清正・片桐且元・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則の7人で、いずれも後に豊臣政権を支える大名へと成長していきました。
| 名前 | 生没年 | 生まれ | その後の主な城・領地 |
|---|---|---|---|
| 福島正則 | 1561〜1624年 | 尾張国海東郡 | 広島城主(49万8,000石) |
| 加藤清正 | 1562〜1611年 | 尾張国愛知郡中村 | 熊本城主(肥後54万石) |
| 加藤嘉明 | 1563〜1631年 | 三河国幡豆郡 | 松山城を築く、のち会津40万石 |
| 脇坂安治 | 1554〜1626年 | 近江国浅井郡 | 淡路洲本城主、のち伊予大洲城主 |
| 片桐且元 | 1556〜1615年 | 近江国浅井郡 | 摂津茨木城主、秀頼の傅役 |
| 平野長泰 | 1559〜1628年 | 尾張国津島 | 大和国十市郡に5,000石の加増 |
| 糟屋武則 | 1562〜1607年 | 播磨国加古郡 | 播磨加古川城主(1万2,000石) |
長浜市の観光サイトによると、福島正則は賤ヶ岳で一番槍と一番首を挙げ、ほかの6人より多い5,000石の恩賞を与えられました。加藤清正は秀吉と同じ尾張の中村の生まれで、母親どうしがいとこだったという説もあります。脇坂安治と片桐且元は、今の長浜市にあたる近江国浅井郡の出身で、地元とのつながりが深い武将です。
賤ヶ岳の直後に与えられた恩賞は、福島正則以外は3,000石前後が中心でした。長浜市の観光サイトによると、脇坂安治は柴田勝政の軍勢を打ち破った功で山城国内に3,000石、平野長泰も3,000石を受けています。糟屋武則は、七本槍に数えられることもある桜井佐吉を助けて佐久間盛政の配下の武将を討ち取り、加古川郡内に2,000石と河内郡内に1,000石を与えられました。そこから文禄4年(1595年)ごろまでに、片桐且元は摂津茨木城主1万石、加藤嘉明は伊予松前城主6万石、糟屋武則は播磨加古川城主1万2,000石と、それぞれ大名になっています。加藤清正は肥後半国19万5,000石で熊本城主となり、関ヶ原のあとに肥後一国54万石を治めました。わずか十数年で、数千石の若武者から数万〜数十万石の大名へと出世したことになります。
7人のその後は、決して同じ道ではありませんでした。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、福島・加藤清正・加藤嘉明・平野は徳川家康の東軍につき、脇坂は当初西軍にいながら途中で東軍に寝返りました。一方、糟屋武則は7人の中でただ1人西軍につき、戦後に改易されています。片桐且元は豊臣秀頼の家老として豊臣家と徳川家の間を取り持とうとしましたが、方広寺の鐘銘事件で大坂城を去り、大坂の陣では徳川方として出陣しました。
福島正則は広島城の無断改修をとがめられて改易され、晩年を信濃で過ごしています。加藤嘉明は伊予の勝山を「松山」と改めて松山城と城下町を整え、後に会津40万石に移りました。こうして見ると、賤ヶ岳の手柄は7人の出世の出発点でしたが、その後の運命は大きく分かれたことがわかります。
本当は9人?『甫庵太閤記』と『一柳家記』の「先懸之衆」
実は、「七本槍」という呼び方は戦いの当時からあったものではありません。Wikipediaによると、「賤ヶ岳の七本槍」という名称が最初に見られるのは、江戸時代初期の『甫庵太閤記』です。そして、「7人」というのは語呂合わせで、実際に感状(手柄を認める書状)を受け、数千石の禄を得た人は、桜井佐吉(家一)と石川兵助(一光)も同じだったとされています。
長浜市の観光サイトでも、秀吉は4月21日の追撃戦で活躍した9人の小姓たちの働きをたたえて感状を与え、江戸時代に入ってから、そのうちの7人が注目されるようになったと説明しています。天正年間に大村由己が書いた『天正記』の「柴田合戦記」には、7人に桜井と石川を加えた9人の名前が挙げられているそうです。なぜ9人のうち7人だけが語り継がれたのかについては、はっきりした理由は分かっていません。
さらに別の記録も残っています。一柳直末・直盛の兄弟の手柄を、直盛の子の一柳直良がまとめた『一柳家記』には、4月21日の佐久間盛政の軍勢との戦いで活躍した「先懸之衆」14人が描かれているのです。Wikipediaによると、その顔ぶれには加藤清正・片桐且元・平野長泰・福島正則といった七本槍のメンバーのほか、大谷吉継(当時は大谷桂松)や石田三成(石田左吉)の名前もあり、14人が1万5千の敵に向かっていったのは比べるものがない働きだと評判になったとされています。
ただし、『続群書類従』に入っている『一柳家記』のテキストには、「石田左吉」について、福島正則の家臣の桜井左吉のことだとする説も割注として書かれているそうです。のちに関ヶ原で敵味方に分かれる三成が、賤ヶ岳では七本槍と並んで最前線にいたのかどうかは、史料の読み方によって変わるということです。
このように、「七本槍」は後の時代に形づくられた呼び名で、実際の戦場で活躍した人はもっと多かった可能性があります。賤ヶ岳の戦いについて調べるときは、『甫庵太閤記』のような江戸時代の軍記物と、戦いに近い時期の記録とを分けて読むと、伝説と史実の違いが見えてきます。
今の賤ヶ岳古戦場を歩くには?リフトと史跡めぐり
賤ヶ岳の周辺には、今も戦いのあとを伝える史跡が数多く残っていて、リフトやハイキングコースで訪ねることができます。最後に、2026年の営業期間にあわせた古戦場の歩き方をまとめます。
賤ヶ岳リフトの料金や営業時間と、山頂の見どころ
賤ヶ岳の山頂へ行くいちばん手軽な方法は、南西のふもと(長浜市木之本町大音)から出ている賤ヶ岳リフトです。Wikipediaによると、このリフトは1959年8月に開業し、近江鉄道が運営していましたが、2019年6月に奥伊吹観光に譲られました。公式サイトによると、リフトに6分ほど乗れば、琵琶湖や余呉湖、竹生島、伊吹山を見渡せる場所まで登れます。
| 項目 | 内容(2026年) |
|---|---|
| 運行期間 | 4月18日(土)〜12月6日(日)まで毎日 |
| 営業時間 | 9:00〜17:00(下りの最終乗車16:45) |
| 11月の営業時間 | 16:00まで(下りの最終乗車15:45) |
| 大人(中学生以上) | 片道600円、往復1,100円 |
| 小学生 | 往復500円 |
| 団体割引(25名以上) | 大人 片道550円、往復1,000円 |
上の表の出典は、滋賀県の公式観光サイトとデイリースポーツの記事(2026年8月)です。幼児は無料とされています。なお、長浜市の観光サイトのエリア紹介ページには「大人900円、小学生500円(往復)」と書かれた箇所があり、公式サイトの最新の料金(大人往復1,100円)とは違っています。古い情報が残っている可能性があるので、料金はリフトの公式サイトで確かめるのが確実です。11月は営業時間が1時間短くなるので、紅葉の時期に訪れる人は注意しましょう。公式サイトによると、大雨・暴風警報が出た日は運休になり、マウンテンバイクやBBQ、テント、ドローンの利用は禁止されています。障害者手帳を持っている人は、券売機でチケットを買ったあと、乗り場の係員に手帳を見せるよう案内されています。
アクセスは、車なら北陸自動車道の木之本ICから約3分です。電車の場合はJR北陸本線の木ノ本駅が最寄りで、滋賀県の観光サイトでは徒歩40分、デイリースポーツの記事ではタクシーで5分、路線バスで15分とされています。土日祝日やお盆休みには、木ノ本駅西口からふもとまで無料のシャトルバスも運行されています。ただしWikipediaには、2024年に始まったこのシャトルバスについて、おおむね1時間に1本ほどで、運行日も限られていたと書かれているので、時刻と運行日を事前に確かめておくと安心です。
山頂の広場には、「賤ヶ岳古戦場」の碑や戦没者の慰霊碑、「賤ヶ岳七本鎗」の記念碑が立ち、山頂から見える「新雪 賤ヶ岳の大観」は、琵琶湖八景の1つです。2026年4月からは、琵琶湖に向かってこぎ出せる「絶景ブランコ」や、「SHIZUGATAKE」の文字のフォトスポットも登場したとデイリースポーツは伝えています。リフトの降り場から山頂までは少し山道を歩くので、歩きやすい靴で出かけましょう。
余呉湖周辺の史跡と賤ヶ岳戦国ステーション
リフトで山頂に登るだけでなく、ふもとや余呉湖の周りにも、戦いを伝える史跡が点在し、長浜市の観光サイトでは、秀吉が出陣の準備を整えたと伝わる「猿が馬場」、戦いのあとに多くの首が洗われたとされる「首洗いの池」、秀吉が再建を命じたと伝わる余呉湖畔の「全長寺」(別名あじさい寺)、勝家の身代わりとなった「毛受兄弟の墓」などが紹介されています。
中川清秀の墓は、賤ヶ岳から北東へ延びる尾根の先にある大岩山にあります。滋賀県の観光サイトによると、清秀の100回忌に建てられた墓で、大岩山中腹のハイキングコースの途中にあり、JR北陸本線の余呉駅から徒歩約40分です。長浜・米原の観光サイトでは、北陸自動車道の木之本ICから車で10分、そこから徒歩約35分とされています。賤ヶ岳の山頂から尾根伝いに歩くこともできるので、体力に合わせてコースを選びましょう。
史跡を回る前に立ち寄りたいのが、2026年4月4日にオープンした「賤ヶ岳戦国ステーション」です。滋賀県の広報レポートによると、大河ドラマ『豊臣兄弟!』をきっかけに開かれている「北近江豊臣博覧会」の拠点施設の1つで、旧余呉文化ホール(長浜市余呉町中之郷2434)に設けられています。戦いの経過を時系列で紹介する映像やパネル、地形と陣の配置を再現した大型ジオラマ、床に陣形図を描いたフロアマップなどがあり、期間は12月20日(日)まで、時間は10時〜16時(最終入館15時30分)、原則無休です。ただし、公式サイトによると11月15日(日)はメンテナンスのため臨時休館となります。
長浜の町なかで秀吉の時代を感じたい人には、豊公まつりもあります。長浜市の観光公式アカウントの投稿によると、秀吉や賤ヶ岳七本槍にふんした武者たちが、賤ヶ岳合戦の勝利の凱旋を表す行列として、豊国神社から長濱八幡宮まで練り歩いたそうです(Xの投稿)。また、賤ヶ岳戦国ステーションでは、地元の研究者による賤ヶ岳合戦の勉強会も開かれていると紹介されていました。リフトの営業は12月6日まで、戦国ステーションは12月20日までなので、訪れるなら秋のうちに計画するとよいでしょう。
まとめ:賤ヶ岳の戦いは秀吉が天下人へ進んだ分かれ道
賤ヶ岳の戦いは、天正11年(1583年)4月、織田家の主導権をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が近江の賤ヶ岳周辺でぶつかった戦いです。佐久間盛政の大岩山奇襲で中川清秀が討死したあと、秀吉は大垣から約52kmを5時間で戻る「美濃大返し」で反撃し、前田利家の離脱もあって勝利しました。勝家はお市の方とともに北ノ庄城で自害し、秀吉は天下人への大きな一歩を踏み出しました。
「七本槍」は江戸時代の『甫庵太閤記』で広まった呼び名で、感状を受けたのは9人だったとする記録もあります。今の賤ヶ岳には、2026年は12月6日まで運行する賤ヶ岳リフト(大人往復1,100円)で登ることができ、山頂の碑や大岩山の中川清秀の墓、余呉湖畔の史跡、賤ヶ岳戦国ステーションを合わせて回ると、戦いの流れを現地で確かめられます。