長浜城と秀吉の関係は?1574年の築城から廃城までの歴史と遺構3つ、長浜城歴史博物館の料金と御城印、2026年の北近江豊臣博覧会

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滋賀県長浜市の長浜城は、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が初めて城持ちの大名になって築いた城として知られています。2026年は大河ドラマ「豊臣兄弟!」の放送にあわせて市内で北近江豊臣博覧会が開かれており、Xでも10月下旬に、長浜別院大通寺の境内で12月20日まで大河ドラマ館が開かれていると紹介する投稿がありました(Xの投稿)。

とはいえ、秀吉がいつ長浜城を築き、いつまで城主だったのか、今の天守のような建物は当時のものなのかは、意外と知られていません。この記事では、長浜城と秀吉の関係を2026年10月時点の情報で順に紹介します。

目次

長浜城は秀吉にとってどんな城?

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まずは、秀吉がなぜ琵琶湖のほとりに城を築いたのか、そして城と一緒にどんな町をつくったのかを見ていきます。長浜城は秀吉の出世の出発点にあたる城でした。

今浜から長浜へ 築城の経緯

長浜城歴史博物館の解説によると、長浜の地はもともと「今浜」と呼ばれ、戦国時代のはじめには北近江を治めた京極氏方の今浜城がありました。その後、北近江の実権を握ったのが浅井氏で、3代にわたって小谷城を居城に地域を支配しています。浅井長政は織田信長の妹・市と結婚して同盟を結びましたが、のちに信長と敵対し、3年にわたって戦いました。

この戦いで活躍した織田軍の武将が秀吉です。天正元年(1573)9月に長政が小谷城で自害して浅井氏が滅ぶと、秀吉は戦功を認められて浅井氏の領地の大部分と小谷城を与えられ、初めて城持ちの大名になりました。博物館のパンフレットは、姉川合戦と小谷城攻めでの手柄がその理由だと説明しています。

秀吉は山の上の小谷城にとどまらず、交通の要衝と考えた今浜に新しい城を築く道を選びました。パンフレットによれば、翌天正2年の夏にはすでに今浜(今の長浜市公園町付近)で築城を始めており、湖岸に城を移した理由は琵琶湖の舟運を重視した領国経営にあったと考えられています。

築城の準備をうかがわせる史料も残っています。博物館が所蔵する「羽柴秀吉判物 唐川・布施・高田百姓中宛」は天正2年(1574)7月16日付の文書で、築城のために伊香郡の唐川・布施・高田(今の長浜市高月町)の住民を集めたことがわかる一通です。同じく築城の経過を伝える文書は、坂田郡平方の名主・百姓宛と浅井郡下八木の地下人宛の2通が現存しており、博物館は長浜築城を北近江三郡の住民の協力で進めた一大事業と位置づけています。

材料集めについては、浅井長政が竹生島に預けていた材木を運んだことが「竹生島文書」からわかっています。石垣用の石材は領内から集められ、石仏や五輪塔などの墓石まで使われたと考えられているのです。ただ、当時の絵図や古文書はほとんど伝わっておらず、築城の細部には不明な部分が多いとパンフレットは断っています。

城は天正3年(1575)頃に完成したと考えられ、秀吉は地名を今浜から「長浜」に改め、小谷城から家族とともに移りました。Xでは信長の名から一字をもらって改名したと伝わる、という紹介も見られますが、博物館の解説が記しているのは改名したという事実までです(Xの投稿)。

水城と城下町づくり

秀吉が琵琶湖岸に建てた長浜城は水城(みずじろ)で、本丸には天守と御殿があったことがわかっています。秀吉は天正10年(1582)までここを居城とし、織田軍の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出陣していきました。博物館のパンフレットは、長浜を秀吉が一国一城の主となった最初の拠点で、秀吉による城下町経営の基盤が築かれた場所だと紹介しています。

完成後もしばらく工事は続いていたようです。博物館のコーナー展示で紹介されている天正4年(1576)11月29日付の秀吉書状(小谷寺蔵)の解説には、秀吉は天正3年頃から長浜城に入るものの、入城後もしばらく築城工事が続けられていたと書かれています。

城づくりと並んで力を入れたのが城下町です。長浜市の歴史的風致維持向上計画によると、秀吉は今浜を長浜と改め、小谷城下から寺院や商人らを移して城下町を形づくりました。兵火で焼けた長浜八幡宮には今の社地を与えて復興させ、社領や祭田を寄進して、祭礼の日を9月15日と定めました。このとき源義家の後三年合戦の凱旋の様子を表した「太刀渡り」を町年寄十人衆に行わせたのが、八幡宮の祭礼の始まりとされます。

この祭礼こそが、今の長浜曳山祭の出発点です。長浜市曳山博物館の説明では、秀吉がのちに男子の出生を祝って町民に砂金を振る舞い、それをもとに各町が曳山をつくって八幡宮の祭りで曳き回したのが曳山祭の始まりと伝わっています。市の計画書も「といわれている」と伝承の形で書いており、確かな史実というより町に伝わる由来と受け止めるのがよさそうです。

町の経済を支えたのが年貢の免除でした。秀吉は長浜の町を年貢300石の朱印地(免税地)に定め、この特権は長浜城の廃城後も、明治維新まで続いたと市の計画書は記しています。江戸時代に彦根藩の下に置かれてからも朱印地は認められ、長浜は湖上交通の拠点や湖北の年貢米などの集散地、さらに18世紀半ば以降は浜縮緬などの織物の町として栄えました。

曳山祭は毎年4月9日から17日に開かれ、昭和54年に国の重要無形民俗文化財、平成28年にはユネスコ無形文化遺産に登録されています。長浜城の時代に秀吉が整えた町の仕組みが、450年後の祭りにまで続いているわけです。

秀吉が去った後の長浜城はどうなった?

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秀吉が長浜城にいたのは10年に満たない期間でした。ここでは本能寺の変のあとの城主の移り変わりと、廃城後に各地へ移ったと伝わる建物を確かめます。

勝豊から山内一豊と内藤氏へ

天正10年(1582)、本能寺の変で信長が亡くなると、後継者を決める清洲会議で長浜城は柴田勝家に譲られ、勝家の甥の勝豊が城主になりました。しかし秀吉はその年のうちに勝豊を降伏させて城を取り戻し、翌天正11年(1583)4月の賤ヶ岳合戦では長浜城を軍事拠点にしています。取り戻した時期は、博物館のウェブサイトでは11月、パンフレットでは12月と書かれているため、天正10年の冬と覚えておくと確実です。

その後の城主になったのが、長浜城主時代から秀吉に仕えた山内一豊です。パンフレットによれば一豊は天正13年(1585)から18年(1590)まで城主を務めました。長浜城下には一豊の屋敷があったと考えられる場所に石碑が残っており、北近江豊臣博覧会の公式Xアカウントも10月25日に山内一豊屋敷跡碑を紹介していました。

一豊が移ったあとの長浜城は次第に荒れ、湖北の真宗門徒の惣会所が城内に設けられたともいわれます。長浜市の歴史的風致維持向上計画によると、町年寄が本願寺支援の相談をするために集まる「総会所」が、城主不在だった長浜城内に設けられ、これが今の大通寺の基になったといわれています。その後数度の移転を経て、慶安2年(1649)に彦根藩主井伊直孝から今の寺地の寄進を受けました。この時期の湖北は、長浜市石田町出身で佐和山城主となった石田三成の支配下に入っていたのです。

関ヶ原合戦のあとは、大坂の豊臣家への抑えとして、徳川家康の異母弟の内藤信成が城主となりました。博物館の解説は信成(1545〜1612)を、生涯家康に仕えた武将と紹介しています。パンフレットによると、信成は慶長11年(1606)に城の大修築を行い、慶長17年(1612)からは子の信正(1568〜1626)が城主となりました。

長浜城の役目が終わったのは元和元年(1615)です。この年に信正が摂津高槻城へ移ったことで、長浜城は湖北支配の役割を彦根城に譲り、その使命を終えました。博物館の解説は、豊臣氏が滅ぶと長浜城は跡形もなく取り壊されたと書いています。

整理すると、長浜城の主は秀吉、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成と信正の順に移りました。秀吉の城として語られることが多いものの、実際には築城から廃城までの約40年のうち、後半は徳川方の城として使われていたことになります。秀吉が長浜城を居城としたのは天正3年頃から天正10年までの7年ほどで、城の歴史の一部にすぎないものの、町の形や祭り、朱印地の特権を残した点で、長浜にとっての存在感は群を抜いています。

廃城後に残った3つの遺構

廃城後、長浜城の石垣や櫓の材料は彦根城などに運ばれ、城は完全に失われました。それでも、長浜城から移されたと伝わる建物が3つあります。博物館の解説が挙げているのは、長浜市内の大通寺台所門と知善院表門、そして彦根城の天秤櫓です。

1つ目の大通寺台所門は、長浜市の歴史的風致維持向上計画で「伝長浜城追手門」として紹介されています。元は長浜城の追手門(大手門)だったと伝わり、初めは大通寺の山門として使われていました。文化5年(1808)に今の山門を建て始めた際に現在地へ移され、庫裡の正面に開かれていることから台所門と呼ばれるようになったそうです。扉金具の銘や山内家文書から天正16年(1588)の建築とされ、三間一戸の薬医門で本瓦葺きという造りになっています。大正2年(1913)の解体修理で一部の部材は取り替えられましたが、門柱や金具などは創建当時のもので、桃山時代の様式を持つ雄大な城門の遺構と評価されています。大通寺は真宗大谷派の長浜別院で、本堂や広間などは国の重要文化財です。今の山門は文化9年(1812)建築の二重門で、東本願寺の山門を模したとされます。

2つ目の知善院表門は、江戸時代の長浜で秀吉信仰の中核を担った知善院の門です。長浜城下町遺産の紹介では、長浜城の搦手門だったという伝承を持ち、三間一戸の棟門で、棟の両端に鯱瓦を置いています。扉は貫を三段に入れた太い格子戸で、城門風の造りと評価されているのです。本柱の前後に付いた貝型の袖は、城門だった頃には石垣塀に接していたものとされます。大通寺台所門と知善院表門は、いずれも長浜市指定文化財です。

3つ目の彦根城天秤櫓は、文化庁の文化遺産オンラインによると、中央部が一重の櫓門、両端が二重二階の隅櫓という構成で、昭和26年(1951)9月22日に重要文化財に指定されました。長浜城の遺構だと言われていますが、博物館の解説も「言われています」という表現にとどめており、断定はされていません。

彦根城の天守などとあわせて見学できるので、彦根に足を延ばす際に探してみるのもおすすめです。

3つとも伝承を含むものの、長浜城の姿を想像できる数少ない手がかりです。大通寺は長浜城下町の中心部にあり、2026年は境内の総会所が大河ドラマ館の会場にもなっています。

今の長浜城歴史博物館はどう楽しむ?

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豊公園に建つ今の長浜城は、秀吉の時代の建物ではありません。ここでは天守のような建物ができた経緯と館内の見どころ、訪ねる前に知っておきたい料金や御城印を紹介します。

昭和の再興と館内の見どころ

長浜城の跡地は、江戸時代から明治時代にかけて田畑として使われていました。明治42年(1909)に城跡を公園として整える計画が立てられ、豊公園(ほうこうえん)が開園しています。長浜城跡は長浜市指定史跡で、今の博物館はその上に建っているのです。

転機は昭和53年(1978)でした。豊公園の中に歴史民俗資料館を建てる計画が持ち上がると、多額の寄附を寄せた市民から、秀吉が築いた城の跡には城郭型の博物館を望む声が上がりました。こうして昭和56年(1981)から昭和の長浜城再興が始まり、市民の熱意と寄附金によって建てられた長浜城は、昭和58年(1983)に城郭型の歴史博物館として開館しています。

パンフレットによると、今の長浜城は東京工業大学名誉教授だった藤岡通夫工学博士の設計指導で再興されました。外観は2層の大屋根に望楼をのせた初期天守の様式で、「秀吉の長浜城」を再興したいという市民の熱望に応えて、天正期の城郭を想定して建てられています。つまり当時の姿を正確に復元した建物ではなく、天正期の城をイメージした建物と理解しておくのが正確です。名称は平成18年(2006)2月に「長浜市長浜城歴史博物館」に改められました。所在地は長浜市公園町10-10で、開館から2026年で43年目になります。博物館のウェブサイトでは、佐々木洋一さんのイラストによる長浜城と城下町の復元図も紹介されており、湖に面した水城の姿を思い描く助けになるでしょう。

館内では、3階の常設展示「秀吉と長浜」で長浜城主時代の秀吉と城下町の歩みをたどれます。2階は企画展示の部屋で、湖北・長浜の歴史と文化を展示替えしながら紹介しているため、訪ねる時期によって内容が変わります。最上部は「戦国パノラマ展望台」で、琵琶湖や湖北の山並みを見渡せる場所です。

館内には茶室もあり、春(4〜5月)と秋(10〜11月)の日曜日・祝日に開庵しています。訪ねる日が合えば、展示とあわせて立ち寄ってみるのもよいでしょう。

見学の際の注意点として、館内での飲食や喫煙、ペットを連れての入館はできず、展示品の写真撮影も控えるよう求められています。展示解説ボランティア「長浜城一門衆」による案内も受けられますが、希望日の前月18日までに博物館へ連絡が必要です。

開館時間と料金と御城印

開館時間は午前9時から午後5時までで、入館受付は午後4時30分までです。休館日は毎週月曜日(祝日・休日の場合は開館し、翌平日が休館)と、12月27日から1月2日までの年末年始です。点検や展示替えによる臨時休館もあり、大雨や暴風などの特別警報、暴風を含む警報が出ている場合も臨時休館になることがあります。

入館料は、大人(高校生以上)が500円、小・中学生が200円です。20名以上の団体はそれぞれ400円、160円になります。身体障害者手帳などを持っている人と付添い1名、長浜市内・米原市内の小中学生は、手帳や名札などを見せれば無料です。「長浜城歴史博物館友の会」の会員は、会員期間内なら何度でも無料で観覧できます。

注意したいのは、2026年は料金が変わる期間があったことです。北近江豊臣博覧会の連携企画展の会期中、春季の4月25日から6月14日と、夏季の7月25日から9月27日は、大人が1,000円(団体800円)になっていました。小・中学生の料金は変わりません。どちらの会期も終わっているため、10月下旬の時点では通常料金で見学できます。

アクセスは、JR北陸本線の長浜駅から歩いて約7分の距離です。滋賀県博物館協議会の案内には、西口から歩けて駅から長浜城が見えると書かれています。京阪神方面からは米原方面行きの新快速で長浜行きを使うと便利で、車なら北陸自動車道の長浜ICから約15分です。豊公園大駐車場は普通車なら3時間以内無料と案内されています。

記念に人気なのが長浜城公式の御城印です。秀吉の書状(長浜城歴史博物館蔵)から「長浜城」の文字を書き起こし、秀吉の家紋、花押、朱印を入れたデザインで、令和2年(2020)6月に販売が始まりました。価格は1枚300円(税込)で、1階のミュージアムショップで買えます。

遠方の人向けには通信販売もあります。郵便番号・住所・氏名・電話番号・希望枚数を書いた紙と、300円×枚数に送料210円を足した金額を現金書留で博物館のミュージアムショップへ送る方式で、1人5枚までです。おつりは返せないため、ちょうどの金額を入れる必要があります。日付の欄は空欄のまま届くので、訪ねた日を自分で書き入れられます。

2026年に長浜城と一緒に回るなら?

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2026年の長浜は、大河ドラマにあわせた催しが一年を通して開かれています。最後に、10月下旬から年末にかけて長浜城とあわせて楽しめる展示やイベントをまとめます。

開催中の展示と講座

長浜城歴史博物館では、10月3日から11月23日まで企画展「湖北の名勝をたどる」が開かれています。江戸時代には街道の整備とともに各地の名所を絵入りで紹介する名所図会などが広まり、湖北でも竹生島や、秀吉と柴田勝家が覇権を争った賤ヶ岳、余呉湖などが名勝として知られるようになりました。展示では、江戸時代から昭和にかけて湖北の名勝を描いた作品を中心に、景色の移り変わりをたどる構成です。

長浜城に関わる資料も見逃せません。主な展示資料には、梁川星巌の「長浜城址詩」を杉本鳩荘が書いた作品や、雲華上人が天保8年(1837)に長浜城跡で詠んだ七言絶句があります。雲華上人の作品は長浜十人衆の下村氏に贈られたもので、秀吉の天下一統のありさまを力強く詠んでいます。廃城から200年以上たっても、長浜城跡が秀吉をしのぶ場所だったことがわかる資料です。ほかにも竹内栖鳳の「千山万壑之図」(明治29年)などの作品も並び、見ごたえのある内容です。

あわせて、9月29日から11月15日まではコーナー展示「北近江と長浜」②「小谷寺に伝わる戦国の文書」が開かれています。浅井氏の祈願寺だった小谷寺に伝わる秀吉や徳川幕府の文書を紹介するもので、先に触れた天正4年(1576)11月29日付の秀吉書状もここで見られます。小谷寺の東面と南面の道の内側を寺に与えると述べた書状で、秀吉が浅井氏滅亡後も小谷寺を保護していたことがうかがえるのです。

講座では「大河ドラマを3倍楽しむ講座」が続いており、第4回は淡海歴史文化研究所所長の太田浩司さんが、史実とドラマの違いを解説します。取り上げる話題は、中川清秀は秀吉を裏切ったのか、柴田勝家とお市は北庄城の天守から飛び降りたのか、長久手合戦で戦死したのは池田父子だけか、などです。受講料は1,000円(長浜城友の会会員は無料)で、10月4日から友の会事務局への電話か博物館の受付で申し込む形になっています。

なお、夏に開かれた企画展「秀吉、秀長と天下を支えた近江衆」は9月27日で終わりました。長浜城主時代に秀吉や秀長の家臣になった石田三成や片桐且元、宮部継潤らを紹介した展示でした。図録などの刊行物は博物館の刊行物一覧で扱いを確かめられます。

豊臣博覧会と4daysの予定

長浜市では、北近江豊臣博覧会が2026年2月1日から12月20日までの323日間開かれています。市を長浜城下町、浅井・小谷城下町、賤ヶ岳合戦の3つのエリアに分け、それぞれ「兄弟の絆」「家族の絆」「家臣の絆」をテーマにしています。公式ロゴマークは、秀吉の馬印として知られる「逆さ瓢箪」がモチーフです。

長浜城下町エリアの中心が「豊臣兄弟! 北近江長浜 大河ドラマ館」で、会場は長浜別院大通寺の総会所(長浜市元浜町32-9)です。番組の衣装や小道具、特集パネル、ここでしか見られないオリジナル映像などを展示しています。時間は9時から17時(最終入館16時30分)で、原則無休、入館料は大人600円、小中学生300円です。旧建物を使っているため靴を脱いで入る形で、入口付近には砂利道や段差があり、貸出用の車いすはありません。混雑時は入場制限で屋外で待つことがあり、写真撮影は許可されたポイントのみ、購入したチケットは返金できないという注意事項も出ています。

浅井・小谷城下町エリアには浅井長政やお市の方、浅井三姉妹を紹介する「義と絆館」(大人200円、高校生以下無料)があり、大河ドラマ館、義と絆館、大通寺の3施設共通券は1,000円です。賤ヶ岳合戦エリアの「賤ヶ岳戦国ステーション」は入館無料となっています。

直近の大きな催しが、10月31日から11月3日までの「豊臣4days in 北近江」です。初日は長浜のまちなかで「戦国満載まちなか祭」とオープニングセレモニーがあり、太田浩司さんらのトークライブが予定されています。11月1日は石田三成祭にあわせて浅井文化ホールで石田三成役の松本怜生さんらが登壇し、11月2日は長浜文化芸術会館で丹羽長秀役の池田鉄洋さん、石川数正役の迫田孝也さんらのトークライブが15時から開かれます。最終日の11月3日は、茶々役の井上和さんや脚本の八津弘幸さんが登場する予定です。

11月2日のトークライブは事前申込制で、申込期間は10月13日正午で締め切られています。ほかの催しも会場や申込方法がそれぞれ違うため、特設ページで最新情報を確かめてから出かけると安心です。長浜城と大河ドラマ館はどちらも博覧会の長浜城下町エリアにあるため、同じ日に組み合わせて回る計画も立てやすいでしょう。

まとめ:長浜城は秀吉が初めて築いた城

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長浜城は、浅井氏滅亡後に北近江を与えられた秀吉が天正2年(1574)に今浜で築き始め、天正3年頃に完成させて地名を長浜と改めた城です。秀吉は天正10年(1582)まで居城とし、城下町づくりや年貢300石の朱印地、長浜八幡宮の祭礼の再興など、今の長浜につながる仕組みを残しました。

秀吉が去ったあとは柴田勝豊、山内一豊、内藤信成・信正と城主が代わり、元和元年(1615)に役目を彦根城に譲って廃城になりました。大通寺台所門、知善院表門、彦根城天秤櫓が長浜城の遺構と伝わっています。

今の長浜城は昭和58年(1983)に市民の寄附で再興された歴史博物館で、入館料は大人500円、小・中学生200円、御城印は1枚300円です。2026年は12月20日まで北近江豊臣博覧会が開かれ、10月31日からは「豊臣4days in 北近江」も控えています。開館日や催しの詳細は変わることがあるため、出かける前に博物館と博覧会の公式サイトを確認してください。

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この記事を書いた人

史料や公的な案内を確認し、戦国時代の人物と史跡をわかりやすく紹介する編集部です。

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