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京都国立博物館の屋外展示に、秀吉が造らせた方広寺の石垣がある。大仏のお寺の石なら、上に大仏が座っていたのかな?
ここで、石垣と大仏の台座は分けて考えよう。博物館が解説しているこの石垣は、もともと塀を載せて、大仏殿を取り囲んでいたものです。
大きな仏像そのものはなくても、その周りをどう造ったかという手掛かりが残っているんですね。どの建物の、どの部分だったかが分かると、「大きな石がある」から先へ進めます。
石垣の上にあったのは、塀。その後は回廊へ
京都国立博物館の屋外展示案内では、天正十六年、1588年に方広寺の造営工事が本格化して、まもなく石垣が組まれたと説明しています。
最初は、その上に築地塀が巡らされていました。築地塀は、土を突き固めて造る塀のことです。案内には、西南の隅に柱を建てた跡が残ることも記されています。
さらに、秀頼が再建してからは、上に巡ったものが回廊へ変わったといいます。回廊は、建物を囲んだり、つないだりする屋根付きの通路です。
石垣の上に何があったのかまで見ると、同じ場所に、造り替えの時間が重なっていると分かるんだね!
古い絵図や復元の説明を読むときも、まず秀吉の造営期なのか、秀頼の再建後なのかを確かめよう。一つの時代の姿として混ぜてしまうと、塀と回廊の違いも見失ってしまいます。
正面の大きさだけでは、石の奥行きは分からない
では、あの大きな石は、奥まで同じ厚みで続いているのでしょうか。
同館の「史跡・方広寺石塁」解説には、発掘によって、平たい板状の岩を積んだもので、一つ一つにはあまり奥行きがないと分かった、とあります。石塁は、ここでは石を積んで築いた構造を指しています。
正面から大きく見える向きと、石そのものの厚みは、別に確かめる必要があるんです。
おお、見えている面の広さだけで、石一個の形まで決められないんだ!
この解説では、できるだけ大きく感じられる向きに石を積んでいることにも触れています。ただし、そこから「全部が薄い」「厚さは何センチ」と、資料にない数字や範囲まで足さないでね。
この記事は2003年公開の調査紹介です。ここでは発掘で分かった特徴を読むために参照し、出かけるときの動線や公開状況は、現行の屋外展示案内と当日のお知らせを見てね。
現地へ行くなら、石へ触れたり裏側へ回り込んだりして確かめようとせず、公開されている範囲と解説から。見えない部分は、発掘の情報と組み合わせて読めばいいんです。
なぜ京都に大仏を造った?残った石から、計画全体へ
塀の下だった石垣と分かったら、その内側にどんな計画があったかも気になってきます。
秀吉が奈良の東大寺に匹敵する大仏を造ろうとした方広寺は、いまの京都国立博物館が建つ場所も含む広い寺域を持っていたと、同館の解説は紹介しています。寺域は、お寺の敷地のことです。
この計画を、秀吉の政権や宗教政策から読み進めたい人には、河内将芳著『増訂 秀吉の大仏造立』があります。法藏館の公開目次で、東山大仏の出現から、僧を集めた供養や、善光寺如来を移す経緯へ進む構成を確認できます。
今回照合したのは、2026年刊の増訂文庫、ISBN9784831827340です。ISBNは本の識別番号。同じ著者・題名の2008年の単行本と区別してね。文庫化にあたり、改訂と補章などの追加があると出版社は案内しています。本の全本文を読んだ書評ではありません。
なぜ京都で、どう人や物を集め、どんな宗教政策とつながったのか。そうした計画全体へ、残った石から関心を広げるための一冊です。
目の前の石は、大仏の台座なのか、建物を囲む塀の下なのか。そして、その上の造りはいつ変わったのか。石一つからでも、かつて周囲に広がっていたお寺へ、問いを伸ばしていけます。